あの日のこと

2011.3.11。



あの日、まだ肩書きが無かった頃。



札幌にも大きな揺れを感じ、帰宅して各地の被害を見た時。



頭を掠めたのは「諦観」だった。



前年、母を喪った喪失感を本当は全然受け止め切れてなかった自分は、「これから」なんて考える気力が殆ど無かった。夢もグダグタしてる内に叶える事が出来ず自分の存在価値など見出せなかった。



だが、数時間後に大津波が襲うと知った時、そしてそれが太平洋沿いの北海道にも及ぶと知った時。



僕は、その近辺に住む家族や友人に無我夢中にメールをしまくった。「無事なのか」「無事ならばとにかく高いところに避難してくれ」と。



普段殆ど連絡しなくなった旧友にも、とにかく、少しでも多く、と。



幸い殆どから返信が来て、こちらが危惧するまでもなくそうしようと動いてる様だった。返信が無い人も少なくともその後無事だと人伝に聞いた。



いつのまにか、自分の中の諦観も、負の感情も、どうでも良くなっていた。各地の被害に胸を痛めたが、自分もなんとかしなければ、と思う事が出来た。



数日後街の明かりが自粛で乏しくなった様相を、目の当たりにしながら頑張らなければと朧げに思う様になった。



その数週後、会社から正社員になる気は、覚悟はあるかと打診された。長年バイトをする中である程度社員に近い仕事も手伝いする様になってた事と、定年間近の人の分を補充する理由から選ばれたとの事だった。



僕は頷いた。それは、夢を追う事を完全に諦める事でもあり、母に本来見せたかった社会的地位を得る事でもあった。翌年に正式に通達予定と聞かされた。



9月の一周忌。僕は母にその報告をした。住職からは「お母さんの置き形見だね」と言われた。



翌年2012年に正式に社員として登用された。



あの時期はそんな感じだった。



あの時期にメールした友人達の中には、もう連絡しても返ってこない人達も増えた。今どうしてるのか。



そう言えば一昨年の北海道の地震でも、僕は疎遠になった人達を含め、安否確認のメールをとにかくしまくったっけ。



そう言う気持ちがあるうちは僕はまだ人として多少は救いがあるのかなと思った。



いまのコロナウイルスも、メールで安否確認する事はないけど、自分に関わった人らが無事ならばそれで良いと思う。



今はもう関わりがなくてもその人らとの思い出が残ってればそれだけでも生きていけると思えるから。



これにて。長文失礼。